| 水澤心吾さん TVドラマを始め、映画、舞台と幅広く活躍する俳優である一方、病める現代人を救う心理トレーナーでもある水澤心吾さん。独自のヒーリング心理学と演技メソッドを確立するに至るまでの半生と、新たに取り組む朗読劇への思い入れを語っていただきました。 | ![]() |
―お芝居の世界に入ったきっかけはなんだったのでしょうか。
もともと僕は、歌だったんです。田舎から出てきてビクターのテストを受けたのですが、その矢先にバックアップしてくれていた事務所がつぶれてしまい、その話が流れてしまったんです。結局、歌は断念。しばらくは何をしていいかわからず、呆然としていました。
しばらくして、何気なく行った養成所でミュージカルのオーディションを知りました。水野英子さんのマンガ「ファイヤー!」が原作のミュージカルです。このミュージカルで主役をやらせていただきました。これが大ヒットし、お芝居の世界もおもしろいなと思いだしました。それで、俳優座系列の養成所「劇団俳小」に入り、演劇の勉強を始めました。もう25歳だったので、かなり遅いほうですね。勉強を始めて2年ぐらいして、日生劇場で公演された「天守物語」のオーディションがあり、坂東玉三郎さんの相手役に抜擢されたのがメジャーデビューへのきっかけでした。その後、朝ドラへの出演が決まりTVの仕事が入り始め、続いて映画、舞台といろいろな仕事ができるようになりました。
―ニューヨーク・アクターズ・スタジオのメソッドは、いつ頃学ばれたのですか。
28歳の頃です。その頃、実際のレッスンを見せるオープンハウスというのをやっていたので友人と見に行き、「これだ!」と思いました。当時は、メソッドの演技を身につけたアルパチーノやロバート・デニーロが映画界に出てきた頃だったので、直感的に、これからのお芝居はこの方向にいくな、と感じたんです。日本のお芝居、特に時代劇はパターンの世界なので、まったくの別のものでした。それで、しばらくは東京と京都とを行ったり来たりして、撮影と勉強を両立していました。
―メソッドとは具体的はどういう演技なのなのでしょうか。
真実の演技です。それまでとはまったく違った世界でした。メソッドは世界中の演劇に影響を与えたと思います。創立者はリー・ストラスバーグ氏で、僕は、彼のお弟子さんだった方の下で勉強しました。
メソッドには良い面も悪い面もあります。メソッドが出てきたばかりの頃だったので、そういう演技をやっていることに変なプライドをもってしまう人がいて、実際に自分はやらないのに、他の人の作品にはとても批判的になってしまう。自分たちの演技こそが本当の演技だと思い、理想の世界ばかりを追って現実の世界ではやっていけない、そんな人が大勢いまいた。結果的にお芝居の世界を去っていきましたよ。謙虚さも必要だったんですね。僕は現場をやっていたので、辛うじて踏みとどまりました。良い面は、「自由自在」というところです。そしてリアル。メソッドは瞬間瞬間を大切にします。演技をするという考えではなく、その役の瞬間瞬間を生きるという意味です。
僕は当時、「赤穂浪士」という時代劇の撮影をしていました。赤穂浪士は四十七士、つまり47人いるんですが、僕の役は48人目だったんです。恋を通して人の命の尊さを知り、挫折していく浪士役です。パターンが重要視される浪士ではなく、挫折していく一人の人間だったので、僕にとっては願ってもない役でした。監督にもとても評価してもらえましたし、時代劇にリアルな演技を持ち込んだ、という自負があります。

―精神世界に入っていくきっかけはなんだったんでしょうか。
プライベートなんですが、離婚をきっかけに変化していきました。35歳まではバリバリと仕事をこなしていましたが、連れ添っていた妻と別居離婚することになり、そこで燃え尽きてしまったという感じでしたね。自己の消失。前に進めなくなってしまったんです。自分では何をしていいのか訳が分からず失速していったので、仕事はなくなる。お金はなくなる。5年ぐらいは、まるで夢遊病者のように過ごしました。仕事も少しはしていましたが、心ここにあらず、という感じでした。そして、TVドラマ「不揃いの林檎たち パート3」を最後に役者をやめる決意をしました。ちょうど僕が40歳のときです。「不揃い…」を撮っている時に自分自身の演技を画面で見て、この役者がどうしたいのか、どこに行きたいのかまったく分からなかった。その時、自分自身の限界を感じ、決心がつきました。
―その後に、アメリカに行かれたんですか。
ハワイです。僕の先生だったチャック・スペザーノ氏がハワイでセミナーを行っていたからです。彼は、カウンセラーであり、博士であり、そして元牧師だった方です。世界中から生徒が集まっていました。有名な著書には、「傷つくならば愛ではない」があります。ダイアナも愛読していたと言われる本です。彼は、本当に素晴らしい先生で、僕は彼に助けられました。ハワイには行ったり来たりでしたが、最初の5年は、かなり頻繁に行っていました。その後は、勉強をしながらスタッフとして彼の側で働いていました。今でも毎年セミナーに参加しています。
―その間、お仕事をまったくしていなかったのですか。それも勇気のいる選択だと思いますが。
仕事はしていませんでした。できなかった、というのが正直なところです。絶望と失望に陥り、むしろ「助けて!」という気持ちで先生を訪れました。それからですね。自分の中がどういう風に組み立てられているのか、自分の内側をみていったのは…。僕は彼の下で、愛に触れ、愛を表現し、愛を感じるということを学びました。宗教でもなく、人間としての確信に触れる部分だと思います。この学問は、人類が存在する限り色褪せることはないでしょう。
―お仕事に戻られたのはいつ頃ですか。
勉強はずっとしていましたが、なかなか仕事には戻れませんでした。心理学も、掘り下げていくばかりで外に出れない人が大勢いますが、僕もその一人でした。そんなある日、ある夢を見ました。<<自分が海のそこから海面に顔を出す。そして海上に上がろうと飛び上がる。しかし、身体に鱗があって出ることができない。>>そんな夢でした。きっと、もう少し時間が必要だという暗示だと思いました。仕事に戻ったのは3年程前です。
ところが、最近、青信号の夢を見たんです。これからの人生がスムーズに行くという暗示なのだと思いました。
―20代・30代は、赤信号なのに走り続けている感覚ということですが。
僕のもう一人の師である哲学者の吉村思風先生は、「人生は意思と愛のドラマ」だといいます。そして、「愛なき意思は、人を傷付けずにはいられない。意思なき愛は、自分を堕落させる」とも。
若い頃、僕がいたのは自己証明、価値証明の世界です。意思はあるけど、愛はない殺伐とした世界です。意思ばかりだと、人とのつながりも希薄になっていきます。僕は、チャック先生の下で愛を覚え、そして長いこと愛に浸っていました。今度は意志がないので、外の世界になかなか出てこれなかった。自分自身の選択で愛ばかりやっていると、それもそれでダメなんですよ。両方のバランスが大切なんです。
意思と愛のバランスが取れてきたのは、ごく最近です。
―意思のみで突き進んでいた頃と、意思と愛のバランスがとれた今とでは、心境の違いはありますか。
赤信号の時は心の中が騒がしい。今は、静かだけど、エネルギーに満ちている、そんな感じですね。赤信号の時は、嫉妬や競争にパワーを持っていかれていました。今は、自分が何のゲームをしているか、今どこにいるのかがよく見えてしまうので、昔とは違った視線でものを見ることができます。
―独自のヒーリング心理学と演劇メソッドについて聞かせてください。
あるとき、僕はずっと心理学をやってきたけれど、芝居の中を掘り下げていたんだな、ということが分かりました。心理学をやっている時は、まともな人間になりたい一身で勉強していたので、まさか演技に繋がっているとは思いもしませんでしたが。そこで、メソッドと心理学を融合していったんです。自分の経験を使って。
―メソッドではなく、まさにリアルなワークですね。
そうですね。おもしろい経験があるんですよ。チャック先生は、心理学といってもただ理論を教えるのではなく、感情を使って教える人でした。感情を実際に表現させることでティーチングしていくんです。ある時、一人一人がみんなの前でワークをする機会がありました。僕は演劇をやってきた人間なので、ちょっと優越感を感じて「よーし、みんなを感動させてやろう」と思いました。僕のワークにみんなは感動してくれました。しかし、僕の後に当たった普通の人のワークを見て、もっと感動して泣いたんです。僕は驚きました。素人が自分の痛みを出して訴えたとき、それは演技でもなんでもなく、真実なんですよ。僕はメソッドで真実の感覚を掴んでいたと思ったのに、まだ求心に触れていなかった。素人が表現する本当の感情のほうが人を感動させるんだということに、大きなショックを受けました。今でもそのときのことをよく覚えています。
―杉原千畝さんの朗読劇との出会いをおしえてください。
僕は、2001年にオーストラリアで、シンガポールのチャンギといく捕虜収容所について取り上げたドラマ(日本未公開)の撮影をしていました。オーストラリアは僕にとって、とても肌に合う国だったんですが、オーストラリアから見たら、日本も中国も北朝鮮も、みんな一緒なんです。アジア全部がひとくくりで見られてしまう。なんだか自分が狭い世界に生きているような気がしました。そして、もっと広い世界に出て活躍したい、と。
その頃、僕がハリウッドに興味があったこともあり、政府の意に背いて多くの命を救った日本人・杉原千畝さんの功績をハリウッドで撮れないか、という思いが浮かんできました。日本に帰って確認したら、ハリウッドのある監督が、杉原千畝の映画を撮りたいと、十数年前にすでに言ってきていたんです。しかし、実現はしなかった。その監督は、その後に似たテーマで別の映画を撮りました。みなさんもよくご存知の「シンドラーのリスト」です。
映画が難しいのならば演劇で、と思って調べたら、それもすでに別の団体が団体芝居をやっていたんです。じゃあ、僕は何をやろうか、と考えを巡らせました。杉原千畝さんは非常に寡黙な人だったといわれています。その千畝さんがしゃべったら、一体どんな風になるのだろう―。そんな折、杉原千畝人道顕彰協力会の高橋尚嗣会長から朗読劇を勧められました。それで、千畝さんの本を出している出版社の人にお会いし、一人芝居をやりたいとお願いしたんです。
最初、出版社の人には「一人舞台なら、本を読めば良いじゃないか」と言われましたが、どうにか演じるチャンスを得ました。公演後、「自分で本を読むのと役者という媒体を使って聴くのとではこんなに違うんだな。」と驚きながら言われました。役者の感情が入った朗読劇は、より深く聴く人に届くんですね。それで、今後も僕が朗読劇を続ける許可をもらえたというわけです。
―今後の活動や目指しているものがあればお聞かせください。
あえて夢といえば、人に夢を与えて、愛を伝えていくことですが、僕自身が自分の発見のためにやっているというところがあります。それを通して、非常に自由を味わっています。僕が伝えたいことは、もっと自由を楽しんでほしい、本当の自由を知ってほしいということです。
いずれ、杉原千畝をアメリカで公演したいと思っています。もっと英語の勉強をしなくちゃね。
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水澤心吾
俳優・ボーカル・心理トレーナー
1974年「劇団俳小」に入団、1977年「天守物語」で坂東玉三郎の相手役を勝ち取り、本格的に俳優の道を進み始める。以後、TVドラマ「不揃いの林檎たち パート3」を始め、テレビ、映画、舞台を中心に活躍。その傍ら、ハワイでビジョン心理学の創始者チャック・スペザーノ博士の指導の下、ビジョン心理学、哲学を学ぶ。その後、10年間学んだニューヨーク・アクターズ・スタジオの演技メソッドと心理学を融合させた、独自のヒーリング心理学と演技メソッドを確立。現在は、セラピストとしても活躍中。


